今月の言葉
今月の言葉とは
「練馬芋洗い塾」創設者の1人であり
中村天風邪先生の直弟子であった
故米津千之先生は生前練馬芋洗い塾で我々に対して日々を生きる際の指針となる言葉を遺されております。
米津先生は「日本の道念」という題名で
様々な題材を取り上げられました。
それらはまた米津先生の国文学者としての視点からの天風哲学解釈でもあります。
「今月の言葉」は、その米津先生御遺稿の中から練馬芋洗い塾石井さん独自の
ご判断で掲載しているものです。
なお徒然ブログは毎月練馬芋洗い塾会員の方のコメントを数珠の様に繋ぎます。
皆様お楽しみに!
今月(12月)の言葉
「増ありて減なし」日本文化
解説
※今回も米津先生と栗岩先生の対談です。
栗岩:国家の独善が世界を混乱させています。
独善の典型が宗教です。現代の戦争はほとんどが宗教がらみです。唯我独尊で他の宗教を否定し、相手を殲滅しようなどとするから、永久に終わりのない紛争に入ってしまうのです。キリストとマホメットと戦って、どちらかが他方を全滅させることなど、どう考えても不可能です。神が神を殺せますか?
信者を一人残さず殺戮できますか?
それができないならば、日本のように複数の宗教を受け入れることしか、解決策はないではありませんか。
米津:神と呼ぶからいけないのです。私は大自然と
呼んで、人類共通の対象を表したいと思います。
「もろもろの大自然の精気をば身に宿す」
これが宗教の原点です。誰だって生かされて生きているのです。心臓を意識して自力で動かしているのではなく、自然に動いてくれているのです。
自然に、という心栄えが大切でして、人工的な装置で動かしたり、無理な治療で生かしたりしても、それでは「その場その時にふさわしい行為によって、生きる力と叡智のひらめきとがさずかる」というふうにはならないと思うのです。
栗岩:「随処に主となる」というのは、独善的になって人を支配することとは全く別ですね。
米津:別です。むしろ世界は一つという叡智を身に宿して、我を捨てる事により心を自由にする。
我欲に縛られていては、真実は見えないものです。
栗岩:世界は一つと言っても、それぞれの国には歴史と伝統があり、千差万別の個性を持っています。それを押し潰して、他国も自国と同じ文化や思想・言語に統一してしまおうというのは、とんでもない考え違いです。
米津:「増ありて減なし」と言いまして、日本文化の根本にあるのは、削らずに保存し、少しずつ増やしていく、という態度なのです。
ですから漢字が入ってきても、やまと言葉は滅びませんでした。伊勢神宮の建物も、もとは掘立小屋でした。古事記に「ここは朝日のたださす国、夕日の照る国なり、いとよき所とのりたまいて、底つ岩根に宮柱ふとしり・・・」とありますが、お伊勢様は二十年ごとに次第に増築していったものなのです。
増えて減らないのが日本文化。
ギリシャ神殿なども素晴らしい建物ですが、あれはある時代の誰かが建てたもんです。伊勢神宮は違います。だんだん立派になっていったのです。
人間もそれが大切でして、自分の役割を自然に増やしていく姿勢こそが、その時、その場で主となることに、私はつながっていくと思うのです。
随処に主となる
「その場その時にふさわしい行為によって
生きる力と叡智のひらめきとを授かる」
それが随処に主となるということです。
雑誌特集「随所に主となる」より抜粋
(平成19年7月)
(文章抜粋責 石井 2020.11.7)
10月の言葉解説
~偉い人になるな
高い人になりなさい~
~~~解説(石井)~~~
「偉い人になるな、高い人になりなさい」
というお教えは、米津千之先生が
大変大切にされたお言葉です。
それは一生を教師として生き抜き
学生達を導く上で生まれたお言葉だから
です。
殊に先生は学芸大学で倫理学を
学生達に教えられましたが
学芸大学を卒業する教え子達に
毎年毎年「人生訓」として
この言葉を贈られたと言われています。
世の中には、「名士」と呼ばれる地位、
名声、名誉、権力、財産等に恵まれた
「偉い人」が多くおります。
しかし「偉い人」人は必ずしも
人間的な魅力にあふれ
尊敬に値する「高い人」即ち「立派な人」
とは限りません。
また、知識の多い人でも「低い人」がいる
と米津先生は述べられています。
「高い人」即ち「立派な人」とは
「私」を離れた無心の人「無碍・自在」に
達した人であり、人間的にみて魅力に溢れ
尊敬に値する人物をいいます。
そうした人は意外にも無名で
貧しい庶民の中に見受けられるとも
語られました。
米津先生が最も理想とされ
また尊敬された「高い人」は
「中村天風先生」でした。
(文責:石井秀幸2020.9.2)
8月の言葉
~しなやかに生きる~
7月の言葉
~~~米津先生解説~~~
人生は、「急がば回れ」で山を登る時は
蛇のように曲がり曲がりのぼるでしょう。
蛇のように「しなやか」に曲がることが
自然に順応することなのです。
禍のうごめく人生の海を漕ぎ渡るために
何よりも必要なことは
この「しなやか」な心を育てる事なんです。
~禍のうごめく道を
しっかり歩む~
~~~米津先生解説~~~
ぼくたちは、この大宇宙の大気を、
より多く全身に受け入れることの出来る
態勢づくりを常に心がけていかなければならない。
そして天風先生のように「溌剌」「颯爽として」「生まれ甲斐のある」真人性を
歩んでいかなければならない。
外部から内部から絶えず襲いかかってくる邪気を祓い清め、いついかなる場合も、
「つねに明るく朗らかに、活き活きと勇ましく」暮らしていきたいものだ。
11月の言葉
~高い人間への志を抱いて~
今回の「高い人間への志を抱いて」は
米津先生講話第26講となります。
以下に米津先生文章を掲載致します。
高い人間とは、洋の東西、老若男女とわず、到る所に宝石をちりばめたように輝いている。
「覚心・無碍自在の人」
「邪念や欲望に侵されない人無心の人」
「世の為人の為、真の世界平和を念じている仁者」
「正気颯爽として邪気や悪鬼を寄せ付けない人」
即ち「誠者天之道也。誠之者人之道也」と中庸にあるが如く、道に志し、道を修めた君子を指す。
またザーカイの様に直接イエスにより、永遠に変わることの無い命水を受けた運の良い人も居るし
(新約聖書ルカによる福音書十九章より)、
イエスの御霊を信じて、自己の使命を完うしたマザーテレサのような有徳の人もいる。
日本でも、その時代時代に塗り替えられる歴史の壁を潜り抜けて、国民の脳裏に受け継がれてきた「高い人間」への憧れは、日本独自の「道念の本流」となって消え去ることが無かった。
否むしろ異文化圏の民族がそれぞれに築いてきた美しい人間像を、「自家薬籠中のもの」として取り入れてきたしその上、これらが日本人の道念を振起させる起爆剤にもなっている。
例えば文天祥の志は藤田東湖の「正気之歌」なり甦り、孔孟の経書の教えはもとより、中国春秋時代の烈女の物語「孫叔傲両頭の蛇を殺す」もある。
「孫叔傲嬰児たりし時、人之忌み嫌う両頭の蛇を見て、他人のまた見んことを恐れて、蛇を殺して埋めた」という仁者の美談。
ナイチンゲールの精神が日本赤十字社設立の当たっての大黒柱になっていたことなど、以下の婦人従軍歌(明治27年作)にも伺うことができる。
~~~婦人従軍歌~~~
味方の兵士のみか
言もかよわぬあだまでも
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字
あな勇ましや文明の
母という名を負い持ちて
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字
「高い人間」という時の「高い」は
品性が高い。
人柄が高雅である。
高尚でいやしくないこと。
名高い、気高い、たけたかいという
熟して使われるし、
またどんな光景や状態に使われた
か、その場合にどんな語句と
結ばれて文が綴られているのかを
挙げて「高い人間」の存在感を
確かめたり味わって見たいと思う。
【以下省略】